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10円青銅貨の手変わり

”昭和61年後期” Cf型は「意義ある手変わり品ではない」ことが証明されたため高値で購入することはやめましょう

現行10円青銅貨の手変わり分類表について現時点での分類をまとめました。「通常貨」「プルーフ貨」に関しての手変わり分類表と画像があります。

ギャラリー

昭和62年プルーフ貨 前期 Ce型(大珍品)

年号面


『日本貨幣カタログ』2022には書かれていない新発見の手変わり。

昭和62年 プルーフ貨 前期 Ce型 平等院鳳凰堂面(昭和61年 前期 Ce型と同図案

なお、 通常貨に見られる昭和59年 Ce型、昭和60年 Ce型、昭和61年 Ce型、昭和62年 Ce型、昭和63年 Ce型と同じ図案である。


昭和62年 プルーフ 前期 Ce型(拡大図)

 
       

現在は昭和61年 後期 Cf型(稀少度・人気度・認知度抜群の手変わり品、わが国初のプルーフ貨幣を製造するうえでのデザイン試作的な意味合いがあるとも思われる意義ある手変わり品)として多くの収集家をはじめ業者によって支持されている。現在の定説になっている。

しかし、認知度が高くなったのは「日本貨幣カタログ」2010から2022にかけて掲載された「日本貨幣カタログ」の誤記のためである。当時はわからなかったのだろうが昭和62年プルーフに階段石垣耳石切れ目:有は存在します。これを以下Ce型といいます。

あえて私見を述べさせてもらうならば、実際は単なる稀少手変わり品に過ぎないといえる。なぜなら昭和62年プルーフにも通常貨の前期Ce型と同図案の手変わり品が含まれているためである。

より厳密にいうならば、昭和62年プルーフは1種類だけではなく3種類も存在することがわかっている。

昭和61年後期 Cf型(稀少度だけが高い手変わり品)ということができるだろう。存在の報告はあるが現品未確認のもののうちで昭和56年 Bd型、昭和59年 Cb型、鈴木和三郎先生の発見された昭和54年 Bb1型、報告のあった昭和45年 Ba1型を探しています。これらの未使用こそが入手困難の稀少手変わりであり将来高いプレミアムが付くであろう。




「通常貨」

昭和26年〜昭和33年
昭和34年〜昭和44年
昭和45年〜昭和52年
昭和53年〜昭和64年
平成元年〜平成7年
平成8年〜平成11年
平成12年〜平成16年
平成17年〜平成25年
平成26年〜平成31年
令和元年〜令和4年







「プルーフ貨」

昭和62年〜平成7年
平成8年〜平成16年
平成17年〜平成31年
令和元年〜令和4年

informationお知らせ

              
2023年3月26日
10円青銅貨の手変わり 新掲示板を追加しました。
2022年9月6日
昭和61年後期 Cf型は意義ある手変わり品ではない 、「日本貨幣カタログ」の正誤表および図案と説明文のページを追加しました。昭和62年プルーフには新発見のCe型、従来までの通説であるCf型、新発見のCg型が存在する。(工事中)
2022年2月21日
極印用鋼材の変更により耐用年数が延長されたことなどについて「造幣局100年史・資料編」などから追加。 種印の図案の変更については不明。推測すると、非常に細かいため造幣局の工芸官でさえ正確な図案を把握していなかったためだろうと思える。
2021年8月11日
10円青銅貨の表面に刻印されている平等院鳳凰堂の図柄との関係について興味深いテレビ内容がありましたので追加しました。2021年1月23日放映、1月30日再放送 BSテレビ東京「新美の巨人たち」で取り上げられました。
2021年7月22日
10円青銅貨の手変わりのWEBページを一部公開しました。
20**年*月*日
ここに新着情報が入ります。ここに新着情報が入ります。ここに新着情報が入ります。ここに新着情報が入ります。ここに新着情報が入ります。

1.はじめに
このホームページではこれから現行10円青銅貨の手変わりを収集しようとする方、あるいはすでに盛んに収集を進めている方々のために、10円青銅貨の基本的事項や名称、収集の方針などについて記したものである。 なお、偶然に筆者が新発見をした昭和62年プルーフ Ce型 階段石垣耳石切れ目:有 が存在する事実からいえることは昭和61年後期 Cf型は意義ある手変わり品ではないことが明らかにいえ、国内オークションや市場価格などでも高額な評価はつかないという重要な点である。喀龍先生は10円青銅貨の中に大変稀少な手変わりがあったとしてもそれほど価値のあるものとは思っていないという。この考えも改める必要が出てくるであろう。今後は通常貨やプルーフ貨幣の一般の稀少手変わりにもプレミアが付いてもおかしくないと思う。さらに、「日本貨幣カタログ」2010年版から2022年版までの記載された文章と図に関しても誤植であり、掲載された為に「認知度」が上昇したと考えられる。来年版では改定してほしいところである。
現行10円青銅貨の手変わりの分類表が喀龍氏によって初めて1994年版「日本貨幣カタログ」、『収集』2006年9月号に掲載された。その後の情報は故鈴木和三郎先生の『日本の現行貨幣−収集の手引き−』2011年10月しかありませんでした。10年後の現在の手変わり分類表がありませんでしたのでまとめてみました。私が新発見したものも含めて追加してまとめました。宇治平等院鳳凰堂の図案にしたがってまとめています。収集家に有益になれば幸いです。未見品などありましたら面倒でも報告をください。

昭和25年に製造開始の10円洋銀貨は、朝鮮戦争勃発によるニッケルの価格(相場)が急騰したため発行されず、翌年の昭和26年に50円銀貨用に製作された宇治平等院鳳凰堂のような繊細な図案を使い10円青銅貨が製造されることになる(青山礼二「新訂 貨幣手帳」1982年)。この10円洋銀貨幣は一般には流通されず不発行に終わった。不発行とは形式(素材・品位・直径・模様)が決定して法令により公布されながら発行されなかったものをいう。

1951年(昭和26年)9月、第二次世界大戦の対日講和条約であるサンフランシスコ平和条約が調印される。また、昭和27年にはIMF(国際通貨基金)に加盟し、昭和28年には「円」の値は純金0.00246853gになった。昭和28年1月5日頃、庶民の日常取引では補助貨幣を使わせる方針を取る。10円紙幣の回収は進んだが通貨流通量は減った。日本銀行の公式見解によると、昭和28年1月5日、10円青銅貨の流通が始まった。ところが造幣局では昭和27年9月に日本銀行に引き渡し流通させたという公式見解であり矛盾しています。貨幣は昭和26年末の10円青銅貨幣の制定により、1円、5円、10円の3種の円単位の貨幣が揃い、また、昭和26年末には日本銀行券B50円券が発行された。

世界最古の趣味の一つともいわれるコインの収集。動機はデザインの美しさや歴史に触れる楽しみなど様々だが、資産としてコインがインフレに強く価値が保たれてきたこともコレクターを引き付ける一因である。「稀少度」、「人気度」、「認知度」などが高いことに加え、デザインの良い「手変わり」品はコイン投資にもなる。


わが国では、年号別収集については初心者向けのジャンルではあるが、10円青銅貨の手変わりの収集についてはその歴史が浅く、私が知る限り、ここ三十数年前のことであろうか。最近、ネットオークションでは稀少性の高いものでなくても【手変わり】表示され異常ともいえる高値がつけられていることをしばしば見かける。現在は趣味の多様性のため貨幣の収集家の減少に加え、貨幣業者の減少も徐々に見かけるようになった。10年後の貨幣業者は何社残っているだろうか。

わが国で初めて現行貨の10円青銅貨の手変わりを文献に発表されたのは、後に「近代貨幣手変わり研究会報」の発行人をされていた杉浦和美氏が「ボナンザ」誌上で昭和56年前期と後期の発表をされたことであった。さらに、平成元年に設立された「近代貨幣手変わり研究会」の会長になられた枝重夫先生であり昭和58年5月号の『ボナンザ』誌上で昭和27年前期と後期を発表された。それ以降は正確な概説書はほとんどなく、日本銀行調査局編の『図録・日本の貨幣9 管理通貨制度下の通貨』、郡司勇夫編『日本貨幣図鑑』ともに東洋経済新報社から発行されたものから昭和27年の手変わりの情報を得るしかなかった。故郡司勇夫先生は茨城貨幣研究会創立20周年に来賓されかつて日本銀行に奉職されていた偉い先生で元日本貨幣協会名誉会長である。今ではこれらの書物や雑誌は絶版や廃刊となっていて入手が難しくなっている。そのため、これらは一般には見かけることができず、収集の手引書は皆無であったといえる。日本銀行調査局編『図録・日本の貨幣』全11巻、東洋経済新報社、1973−1976年は日本貨幣史には欠かすことのできないバイブルともいえよう。また、「手変わり」に対する情報がまちまちで正確な情報を得ることができなかったことも手変わり収集家が増えなかった一因である。ある程度系統だった分類収集を目的としている。手変わりとは、極印自体の変化(特徴の違い)、極印の種類や特徴の組み合わせ変化(組み合わせ手変わり)のことを言う。まず、多く見られる基本型(標準品)を、基本的な極印の組み合わせや特徴、特に表面の宇治平等院鳳凰堂の組み合わせに着目して示す。


わが国で最初に「10円青銅貨の手変わり分類表」が発表された喀龍氏の現行貨幣の手変わり『日本貨幣カタログ1994年 特集』285頁は手変わり収集家にとって唯一、信頼できる情報であり「手変わり」が日の目を見た最初の書籍ともいえる。なにしろ『日本貨幣カタログ』に掲載されたのだから日本貨幣商協同組合に正式に認知された分野ともいえるからである。近い将来、昭和61年前期と後期の図案と昭和62年プルーフ貨との関係が追加・訂正されそのほかの稀少手変わりが脚光を浴びることになり、通常貨とプルーフの手変わりと存在比、評価なども発行枚数のように掲載されると非常に嬉しい。しばらくの間は情報はこの『日本貨幣カタログ』1994年版一冊しかなかったため収集家にとっては時間もかかり正確な情報(存在比、稀少度など)を得ることは難しかっただろう。通常貨の昭和61年後期Cf型は神吉先生が1993年の第4回東京国際コインコンヴェンション催事の一環として開催された「第1回全国収集家の集い」の時に公の場で発表させていただいたもので、喀龍 神吉廣純「現行コイン選り銭の妙味」『収集』誌2006年9月号、15頁に発表されている。この「10円昭和61年後期について」のレジュメは全国の収集家の皆様方に配布させていただいたもので、喀龍先生が手書きで描いた説明図なのである。この件で当時の日本貨幣協会名誉会長の郡司勇夫先生より、研究発表に称賛のお手紙をいただき、数年後になり、日本貨幣商協同組合で「日本貨幣カタログ」の編集委員をされていた方から、研究発表に使ったレジュメに描いた説明図を「日本貨幣カタログ」の中で分類説明図として掲載したいとの連絡より2010年版から2022年版まで毎年十円青銅貨のページに掲載されている。
ところが、筆者が複数枚(2枚)の昭和62年プルーフ Ce型を新たに見つけたことから喀龍先生他多数の通説は見事に覆されてしまった。来年以降の「日本貨幣カタログ」に訂正して図と説明、判別図を書き加えてもらいたいと願っている。そのためにも可能な限り、論文を完成したいと考えている。  

一つの種印から多くの極印が作られ、極印を圧印することによって貨幣が出来上がる。種印は長く極印を多数製造しているうちに変形してしまうため工芸官が修正する。この時、種印の修正でも高度な技術と慣れが必要なために間違った貨幣の図案を彫ってしまうと新たな手変わりができてしまうものだと推量する。松尾良彦監修『日本のお金 近代通貨ハンドブック』1996年によると、「貨幣のデザインの原案は、造幣局の工芸官の手によって作られる。貨幣デザインを作成するにあたり、美術的側面と工業生産における機械的な精度や偽造防止対策などの技術的側面を合わせて、両者のバランスを勘案しながら、貨幣として最も優れたデザインを原案として作成する。」と解説されている。また、大蔵省造幣局『造幣局125年史』1997年(平成9年)、35頁によると、「貨幣模様として採用する場合には修正を加えることがある」ために貨幣にする上で不適切と思われる個所は別なデザインに変更されるということが書かれてあった。そのことと全く同じことで10円青銅貨の宇治平等院鳳凰堂の図案も様々な箇所で省略されたりしている。


その後、『収集』誌2012年9月号に喀龍氏の「10円青銅貨の手変わり分類表」や昭和62年プルーフのことが初めて掲載された。そこで、様々なことが明るみに出た。特に、喀龍氏の分類表のうちで「存在の報告はあるが現品未確認のもの」として挙げられている昭和56年 Bd型 左裳階枕:上下無し(現状未見)、昭和59年 前期 Cb型 左破風:階段型を探し出すことにも相当時間がかかったであろう。特に、昭和56年 Bd型 左裳階枕:上下無し は報告者の間違いではないかというくらい存在しないものである。これらは市場ではめったに見ることのできない超稀少組み合わせ手変わりである。まだ貨幣業者ではほとんど認識されていないのが現状であるため、超稀少手変わり品を一般市場で通常価格で拾えるかもしれない。これらの知識を身に付けた後は稀少タイプの発見は容易なものになるだろう。そして、昭和61年 後期 Cf型だけが超稀少タイプとして高額なプレミアムがつけられているが、近い将来『日本貨幣カタログ』日本貨幣商協同組合編集に新たに掲載されることを期待して、それ以外の超稀少手変わりにもプレミアムが付くことを貨幣収集家として望んでいる。また、今日の分類収集では、通常品も一つの変化(標準的変化)とみなし、「手変わり」の一つとして分類する。様々な変化の組み合わせである「組み合わせ手変わり」はその進行形である。

一方、昭和59年 前期 Cb型 左破風:階段型 は私が流通品から良い状態のものを8年前に初めて発見し現在までに5枚ほど見つけ出すことに成功した。この昭和59年 前期 Cb型 左破風:階段型は喀龍氏の分類表にある「存在の報告はあるが現品未確認のもの」は催事の帰りに銀座コインに寄った際に鑑定してもらい真贋を見ていただいた。真正品でした。また、茨城貨幣研究会例会でも出席されたメンバーに見てもらっているので未使用は必ず存在する。見つかることを期待している。あるいはすでに手変わり品に詳しい方は貨幣業者で選んできたことも十分に考えられる。私の予想では、ミントセットには組み込まれていないようである。私は昭和59年 Cb型 左破風:階段型 の未使用を探しています。未使用品を持っている方はぜひ情報をください。また、昭和45年 Ba1型の未使用も探しています。

しかしながら現状は「手変わり」品の発行枚数や最新の手変わり分類表、各部の名称などの情報が研究者によってまちまちで非常に少なく、特に識別番号が分からないという収集家が多い。財務省(旧大蔵省)で各手変わり品に対し、公式な製造枚数を発表していないこともあるだろう。

最も、造幣局では種印の変化については、種印の製作は企業秘密でありセキュリティ対策上外部には漏らすことができないため知りたくても正確にはよく分からないのが実情である。我々収集家にとっては推定することしかできない。例えば、なぜ昭和56年銘は5つの極印が使われたのか、昭和61年銘など『日本貨幣カタログ』に掲載されてはいるがあくまで推量に過ぎないということである。造幣局の概念では「手変わり」はない、図案は昭和26年発行時から現在まで変更していない。貨幣の図案は政府の閣議によって決定され、政令で決められどの年号も同じ平等院鳳凰堂だという。仮に極印製作担当者が仮に変わったとしても図案に変化はないという公式な回答である。私は第26回東京国際コイン・コンヴェンション(平成27年)の懇談会で 造幣局理事に質問をしたことがあるが「造幣局には手変わりの概念」はないとのことでした。

また、大手コイン商にも認知された昭和27年前期と後期の手変わりについても造幣局は収集家たちの唯一のバイブルである日本銀行調査局編の大型本の書籍と一致しない回答をしている。日本銀行調査局『図録 日本の貨幣9』東洋経済新報社、1975年、272頁と郡司勇夫編『日本貨幣図鑑』東洋経済新報社、1981年、265頁に「表面の屋根の両端にある鳳凰の屋根の尾は、当初製造分では垂れ下がっていなかったが、27年後半製造部分から現在の尾に改められた。」と解説されていますが造幣局長(庁長官)年報書等を見ましても一切記載がなく、造幣局では確認できないという。当時の日本銀行調査局の調査と矛盾する点である。これらの2冊の大著の書籍を読んでみるとこの矛盾点がよくわかる。普通は当然ながら、収集家および貨幣業者にとっても日本銀行調査局編ということで信用性は極めて高い情報だと言えよう。

一方、私の希望なのだが毎年のように『日本貨幣カタログ』日本貨幣商協同組合編集、に掲載することが紙面の都合上難しければ同じ日本貨幣商協同組合編集の『日本の現行貨幣−収集の手引きー』に一部の近代貨幣の手替わり別分類表のように「現行貨幣の手変わり」としても「10円青銅貨の手変わり分類表」も掲載されるようになれば、一般の収集家にとっても便利になり「手変わり」収集家にとっても混乱を生むことはある程度避けることができるのではないか。例えば、階段石垣耳石切れ目:有無により前期・後期を決めたり、平成11年を前期・後期とするなどがヤフオクなどでの収集界では用いられている。しかし、平成11年は3種類の大きな手変わり分類が存在する。アルファベット表記の識別番号にするか前期・中期・後期と呼ぶことにするか統一する必要があるだろう。筆者は近代銀貨研究会に現行貨幣の手変わりとして10円の手変わりを取り扱ってもらい催事で稀少品を書信館出版株式会社のブースで販売してほしいと思っている。

しかしながら現状は異なり、例えば、『日本貨幣カタログ』の貨幣関連図書にも挙げられている茨城貨幣研究会会員が出版された有名な書物のように一冊の書籍として出版できたとしても10円青銅貨の「手変わり」収集家が非常に少ないことに加え、関心のある一般収集家や貨幣業者さえも少ないうえに、出版社にとっても利益が少なく望めないことから発売したとしても出版数の増加が望めずすぐ絶版になってしまう恐れが非常に高いと予想しているに違いない。

現時点で認知された手変わり品は、大手オークションで出品されたことのあるものは手変わり品として認知されたと考えてもよいだろう。例えば、マスメディアでも取り上げられたことのある有名な昭和61年前期・後期(稀少)と銀座コインオークションに出品されたことのある昭和27年前期・後期、の2種類しかない。さらに加えるならば、大手オークションではないが「収集」誌上入札でも出品されたことのある昭和56年前期・後期の合計3種類ということになる。

手変わり品は「人気度」、 「稀少度」、「認知度」によって価値が左右されるため昭和61年 後期 Cf型 未使用に高値が付く。もともと発行枚数が少ないうえに、地域差が大きく、未使用が極めて少ないのと、『日本貨幣カタログ』と「収集」誌に発表されたため人気度が極めて高いためである。今ではスラブケースのMS65RDなどは25万円程度の値が付く。まだ、『日本貨幣カタログ』2022年に評価がないことは疑問である。5年前であっただろうか。当時は加盟店の取引例つまり売買実績が極端に少なく評価はまだできないという日本貨幣商協同組合の回答であった。催事での即売リストにもほぼ毎回のように挙げられているためそろそろ『日本貨幣カタログ』に価格が付けられてもいいと思う。コインは独自の需給で価格が決まるため、銅貨の未使用に良い評価が付くことが多い。     
大蔵省造幣局『造幣局125年史』1997年によると、「昭和61年度に極印印面の機械研磨の技術改良がされ、今まで手作業しかできなかった極印表面の模様や文字の肌部分の研磨を特殊研磨剤とともに遠心バレル研磨機を用いることにより、極印全体を研磨できるようになった」と記載されていた。これ以降はこのコンピューターで製造されたことが分かる。しかし、昭和52年以降は相変わらず手変わりは見られます。当時は熟練した工芸官(種印修正ができる人物)が育っていなかったせいもあるだろう。熟練するまで25年かかると言われ経験者が少なかったことが伺える。あるいは正確な宇治平等院鳳凰堂の図案でないと後に貨幣業者様で高値で売られることがあるということをわからなかったことも言えるだろう。

貨幣セット(海外向け・贈呈用)にも似たような現象が起こる。海外に交付した貨幣セットが逆輸入され、国内で異常な高値を呼ぶという事態が起こり、国会でも取り上げられた。高度成長とともに貨幣製造枚数は順調に増加していく。昭和49年度には60億枚を製造、史上最多を記録した。海外向け貨幣セットの交付は、貨幣の製造が繁忙したために昭和48年・昭和49年度の2年度にわたり中断した。しかし、贈呈用の貨幣セットは昭和48年と昭和49年にごくわずかであるが海外の要人向けに配布された。これが国内の大手オークションで異常な高値で落札されるという事態が起こった。その後は、国内でも国内向けに交付されるようになったため事態は避けられた。しかし、2001年バーゼルミントで各国造幣局が参加するショーで同会場で日本の造幣局が限定で販売したミントセットをはじめとして2020年ベルリン会場限定500セットなどの発行により大手のオークションでも高値がつけられている。造幣局でも当然コイン商で高値で売られることを考えていたことだろう。さらに、最近ミントセットやプルーフ貨幣セットだけしか発行しない1円や5円、50円があることが問題となっている。これらの貨幣を入手するには一般の流通貨には含まれないためミントセットやプルーフ貨幣セットを購入するしかない。造幣局の悪儲けといわれても仕方がないのではないか。なお、正確な極印の製造に関してはいうことはない。それは造幣局でも昭和61年 後期 Cf型と昭和62年のプルーフに関しても同じ極印でないとコイン商で異常な高値で売られるトラブルがあることを以後、避けるため十分注意して極印を同じくして貨幣を製造していることがよくわかる。ここのところはよくわかるが話が矛盾している。どうせなら10円青銅貨の極印を意図的に変更したいわゆる手変わり品を製造してもらえないだろうか。

コイン業者のダルマの大谷社長は「銅貨は実際の取引に使われた結果、摩滅していないいい状態のものが少ない。」という。今、銀行に預金をしておいても超低金利のため利息が多めに付くことは期待できない。「手変わり」こそ長い目で投資をすれば、結果的に投資として成功する可能性がある。将来、超稀少品・存在の報告はあるが現品未確認のもの・未見品などの手変わり品がコインホルダーに【手変わり】表示されて値上がりして店頭販売されるようになる可能性が高い。例えば、超稀少の昭和61年 後期 Cf型はスラブの数字が高く評価の高いものは年々上昇している。並品でさえも同様である。ところが、最近昭和62年プルーフ貨の手変わりの前期 Ce型を発見したため昭和61年後期の持つ意義のある手変わり品の役目を終えてしまった。もしかすると、喀龍氏の推測が正しいのかもしれないが、昭和61年 後期 Cf型は今後貨幣業者様などからは購入することは控えてもらいたい。よく考えてから購入して欲しい。実は、昭和62年プルーフ貨の手変わりには1種類ではなく3種類存在するからである。日本貨幣協会の公式見解はどうかはわからない。たとえ、『日本貨幣カタログ』『収集』誌などの文献、資料にも記載されなくても今の定価での購入は絶対に控えて欲しいということを願いたい。ただし、「稀少度」と高い「認知度」・「人気度」から通常の稀少手変わりよりは高く評価されることは変わらないと思える。『収集』誌上入札の要項を読むと、「将来、明確に贋物と判明した場合、落札者の責任は弊社が負いますが、最終的な責任は依頼者である出品者にあります。」と似たような文章がある。このように購入する際に貨幣業者と取引後の契約まできちんとしている場合は責任は取ってもらえるだろうがほとんどのオークションでの約款を読む限りは表現されていないため無理である。店頭で直接購入した経緯に限り変更できる可能性があるだろうが全額返金は難しいと思える。『日本貨幣カタログ』2022にも説明図が掲載されていた有名な手変わり品なので購入を予定している収集家も多いことだろう。貨幣業者にとってもこの高額な手変わり品が売れると商売になるため店頭では言わないことが普通であろう。

この昭和61年後期Cf型に関しては喀龍氏が論文を出されていて翌年に我が国で初のプルーフセットを製造するうえでの試鋳貨ともプロトタイプとも考えられており意義のある手変わりとして収集界では統一された考えになっている。「昭和61年後期 Cf型は昭和62年プルーフを製造するための試鋳貨的な意図で作られた可能性が強い、つまりより素晴らしいプルーフ貨を作る目的で、昭和61年の終盤に昭和62年銘プルーフ貨用として平等院鳳凰堂などのデザインを洗練して表側原型を作り直し、その原型から作った極印で試験的に打ってみて出来栄えを確認したものではないかと思われる」と喀龍氏は『収集』誌2006年9月号で主張されておられるが、昭和62年プルーフ貨の手変わりのうちで昭和61年 前期 Ce型と全く同じ図案のものを新発見できたため私はこの推測は覆されたと解釈する。意義ある手変わり品から単なる稀少手変わりになることを意味する。 来年発行される『日本貨幣カタログ』2023年に訂正されて分類方法などが掲載されて欲しいことは収集家仲間としても当然のことである。『日本貨幣カタログ』の最新版にも掲載されていないので知らない収集家が誤って購入されてしまうことを未然に防げるからだ。私の新発見から従来までの昭和61年後期のこの考え方は見事に覆されたといえる。また、昭和62年プルーフ 前期 Ce型 が新発見されたことからも喀龍氏の通説には反対する立場をとる。10円青銅貨の手変わりの中でも意義ある手変わり品として昭和61年後期だけが特別な稀少手変わりになりうるという時代は過去のものになり、これからの時代は稀少価値のより高い手変わり品に焦点が移るようになると思われる。そのため、超稀少品、存在の報告はあるが現品未確認のもの、未見品の未使用を早いうちに買い求めておいたほうがいいと思う。遅くなればなるほど値上がりして買えなくなるだろう。例えば、今日の昭和61年後期がその通りで徐々に値上がりする傾向は強く見られ、第18回東京コインショーでも貨幣業者様は異常ともいえる高値をつけていた。 ホームページに昭和61年 後期 Cf型は昭和62年プルーフを製造するため試鋳貨的な意味合いがあるということを改めたい。すでに昭和61年後期を持っている人も貨幣業者様が知らないうちは高値で売却できると思える。ただし、買取価格は半値以下になってしまうだろう。今まで貨幣業者は昭和61年後期 Cf型は意義ある手変わり品として販売されていたが意義がないことが証明されたために覆されたといえる。そのため暴利を得ていた貨幣といえるだろう。『収集』誌に投稿してもいいが文才がなく良い文章が書けない。校正に期待する。できるだけ多くの収集家に新発見により覆されたということを知ってもらいたい。

さらに、号・喀龍氏の10円青銅貨手変わり分類表が『収集』2006年9月号に発表されて以来、およそ15年以上が経過した。発表された当時は、喀龍氏の分類表には「存在の報告はあるが現品未確認のもの」というものがあったため、なかなかすべてを収集することは難しかったことが伺える。私は昭和59年 Cb型 左破風:階段型を5枚、流通貨から見つけることができた。そのため未使用品を探しています。昭和59年銘などの10円青銅貨は多数残されているため必ず未使用品はあるはずであり、発見までに数十年かかるかもしれない難獲品といえるだろう。一方、昭和56年 Bd型 左裳階枕:上下無し は現在まで流通品からは見つけることができなかった。そのため存在にはかなり否定的である。また、故鈴木和三郎先生の発見された昭和54年 Bb1型も現状未見である。昭和45年 Ba1型 の未使用も探している。現在、存在するかについて調査中である。

その『収集』2006年9月号に掲載された号・喀龍氏の10円青銅貨手変わりの記事のうち、昭和61年 前期 Ce型と後期 Cf型、昭和62年プルーフ の図案と説明が『日本貨幣カタログ』に掲載されるに至った。現在では精密なコンピュータで種印が作られ、熟練した技術者である造幣局・装金極印課の土手内靖作業長が修正している。さらに現在では正確な極印が作られていることと検品も念入りにされているために「手変わり」はできないものと推定する。なお、極印で打たれたものを収集界では刻印とも呼ぶ。刻印という用語は日本近代銀貨研究会でも使われている。

なぜ昭和56年の当時は5種類もの極印が使われたのが大いに疑問である。私の勝手な想像であるが、恐らく種印の疲労が生じたために当時の造幣局の工芸官が間違った(数種類)の平等院鳳凰堂を彫ってしまったのだろう。この推測は喀龍氏の考えと同じである。貨幣極印を製造するための種印は、数倍大の貨幣原型から造られた縮彫原版の表面を縮彫機の針でなぞって実物大に刻まれるが、繰り返し縮彫機を使ううちに縮彫原版は表面の摩耗などによりやがて使えなくなる。当時は正確な種印に製造できなかったためだろう。現在は造幣局の熟練した工芸官が注意して図案の全く同じ種印を製造されているため手変わりは出現しないものだと考えられる。(喀龍「十円青銅貨昭和六十一年銘後期に関する追加考察」『収集』誌第37巻、第7号、2012年7月号、11頁)。いや、平等院鳳凰堂側を数人で彫ったために異なった図案ができてしまったことも考えられる。当時の種印の耐久性は現代とは比較にならないくらい早かったのかもしれない。いや、発行枚数が異常に多いためにもともと極印が数種類用意されていたのかもしれない。この当時は手変わりは見られるため正確な種印の修正と極印を作成することはできなかったことも考えられる。種印の修正も高度な技術が必要で同一で正確なものを作らなかったためにできたものともいえよう。大蔵省造幣局『造幣局百年史 資料編』1974年(昭和49年)で極印の数などを確認しているが見つからない。後に異なった図案ができて現在のように手変わりコレクターが出現すること、もしくは存在数の少ないものが異常ともいえるほど貨幣業者で高値で販売されることになることは想像できなかったとも考えられる。例えば、スラブケース入りの鑑定品 昭和61年後期 Cf型 未使用 は『日本貨幣カタログ』でもすでに分類されている稀少手変わりであり、市場でもプレミアム付きで分類販売されているので、普通価格で拾うことはまず不可能であろう。『収集』誌2012年7月号喀龍氏の「十円青銅貨昭和61年銘後期に関する追加考察」にもあるように、極印製造や発行に至る経緯の詳細は、推論の域を脱しない。昭和63年銘のプルーフセットには昭和61年 後期 Cf型しか存在しないが、昭和61年銘ミントセットには前期 Ce型しか存在しない。昭和62年と昭和63年銘のミントセットには前期 Ce型、後期 Cf型の両タイプが混在する。また、昭和61年、昭和62年、昭和63年には明らかに2種類の種印・極印が使われており、その原因はわからない。現存品の前期 Ce型との存在比率から昭和61年内に造られた後期 Cf型の極印は数個であることは間違いない。昭和56年全体の製造枚数は、各手変わり品の合計Bc型+Bd型+Be型+Bf型+Ca型になる。同様のことはあらゆる年号の手変わり品の製造枚数に関しても当てはまる。対称分類全体を100%として大分類とした。

ちなみに昭和25年から昭和32年まで宇治平等院鳳凰堂は昭和の大修理を行っている。修理中に10円青銅貨が発行された。したがって、10円青銅貨の姿は昭和の大修理以前の姿であり明治修理後の姿である。平等院は京都府宇治市の宇治川のほとりにある。古くは源融の別荘であったが、後に、藤原道長を経て頼道に伝えられ、末法に入ったとされる1052(永承7)年、頼道は天台系の寺として平等院を開き、翌年に定朝作の阿弥陀如来座像を安置し、阿弥陀堂を建立した。これが今日の鳳凰堂である。平成になり平等院鳳凰堂の大修理が行われる。



(以下略)
産経新聞電子版2013年7月25日によると、造幣局・装金極印課の土手内靖作業長は「この年銘が入った種印は、毎年、一つしか作らないので、大変、貴重なものになります。」と説明する。この年号の部分を新たに作り変えるということだが「土手内氏を含めて数名で彫りを担当していきます。機械彫りをしまして、機械で彫れないところを手彫りで直していきます。」機械で彫った修正前のものと、手彫りをした後のもの、比べてみると鮮明さが全然違う。土手内氏は、日本で唯一、10円青銅貨の表に描かれている宇治平等院鳳凰堂を彫ることのできる人である。大阪の優秀な技術者に贈られる「なにわの名工」にも選ばれている。土手内氏の存在自体が貨幣の偽造防止に一役買っているという。彼は宇治平等院鳳凰堂を彫れる名工である。現在の大阪の造幣局での貨幣の製造過程が詳しく解説されている。土手内氏は「今、十円玉を担当しているため2018年に製造された十円玉はすべて私が修正した金型から作られることになります。それが日本中に出回るわけですから、とてもやりがいを感じます。十円玉の表に描かれた平等院鳳凰堂の部分は特に難しい。」と解説する。    
      
また、2021年11月5日のNHK 関西 NEWS WEBによると、すぐれたもの作りの技能を持つ「現代の名工」に大阪・北区の造幣局から硬貨の種印の製作に長年関わってきた土手内靖氏(57)が選ばれた。土手内氏は、「ものづくりに関わっている者にとって最高に名誉ある賞で、ものすごくうれしいです。後輩の役に立つような立場になっていきたいと思います」と話されていた。大阪・羽曳野市出身で高校卒業後、造幣局に入り硬貨や勲章の金型のもとになる「種印」の製作に40年近く関わってきた。種印は文字や図柄を機械で大まかに作った後は、すべて手作業で完成させる。土手内氏は、顕微鏡を見ながら手作りの工具を使って、最小で、1000分の3ミリ単位で、文字や図柄の輪郭を削り取る技術が評価された。今月、21年ぶりに発行された新500円バイカラークラッド貨幣の種印作りにも関わったということです。「現代の名工」の表彰式は、11月8日、東京で行われた。

さらに、CBC放送で2021年11月21日(10月撮影)に放送されたBACKSTAGE〜MC武井壮が「新500円硬貨」製造現場に潜入!〜」によると、 新500円バイカラークラッド貨幣の製造場所の大阪・造幣局の内部があり参考になります。種印についても詳しく解説されています。貨幣の模様をつける元となるものを種印と呼んでいる。種印とは硬貨の模様が刻まれた金型のこと。種印を写し取った極印をいくつか作り、工場で硬貨作りに使う。種印は世界で一つしかない硬貨作りの大元。ただし、極印を作るたびにすり減って模様が変形するため、定期的に修正している。今では種印と極印の両方を修正する。平等院鳳凰堂の図柄の10円青銅貨の種印の作者の種印マスター(造幣局 種印職人歴38年)土手内靖氏(57)もコメントされています。日本で流通される硬貨はわずか6人で種印の修正をされている。最も種印作りが難しいものに10円青銅貨を挙げられています。土手内氏は全ての貨幣を彫る技術を持つ。また、無数にある細かい線をくっきりさせるのが至難の業であると言う。また、土手内氏が入省されてから10円青銅貨を彫れるまで25年かかったという。非常に難しい作業だ。細かい線を彫る技術を長く経験を積んで一人前になる。高度な技術者といえる。10円青銅貨の種印作りができるのは、土手内靖氏と造幣局 種印作り28年 松本和彦氏(49)の2人だけである。種印作りの作業期間(修正作業)には2か月掛かる。他の1円、5円、50円、100円、500円はわずか2−3週間である。
(以上 略)


その後、貨幣業界は徐々に衰退し趣味の多様化に伴い収集家やコイン業者の数も少なくなっていった。研究者によって考え方は様々であることに加え、場所の正式名「軒丸瓦」のことを貨幣上の呼び名について喀龍氏は「饅頭」、故鈴木和三郎先生は「左隅楼の形状軒先 ●有」と呼び名はばらばらで実際のお堂とは異なる名称が使われている。近代貨幣の1円銀貨や50銭銀貨などの名称にも柳生淑郎氏が執筆された『近代貨幣分類図鑑』に可能な限り準拠している(日本近代銀貨研究会)。このように実際に使われている呼び名と貨幣に彫刻をする場合、省略されていることが目立つ。貨幣にする場合は仕方がないともいえる。

従来、昭和61年 後期 Cf型 階段石垣耳石:切れ目:無しは昭和62年プルーフを製造する際のデザイン試作的な意味合いが強い大変意義深く価値ある手変わり品と考えられてきた。ところが2021年の3月13日に、私が某大手オークションで落札できて偶然に昭和62年プルーフ Ce型 前期 階段石垣耳石切れ目:有 を新発見したことから『日本貨幣カタログ』掲載記事は時代に合わないという問題が残っていた。私は8000円で落札できた。非常に高値であったが幸運であった。そこではもう一枚出品・落札されており、落札価格は16300円であった。私と競合した結果、価格が吊り上がったのである。なお、筆者が流通貨幣の中から見つけたプルーフ貨幣も新発見のCe型でした。現在3品確認。そのうち2枚所有。まだ、その「貨幣」を第三者機関のスラブ入り鑑定会社への依頼などはしてないため明確ではありません。なお、今年のTICCとCCFの鑑定コーナーで3名の鑑定士に見てもらいました。より多くの収集家や業者さんへのご理解を得るためにも情報発信をしていくつもりであります。また、プルーフ貨は二重打ちにもかかわらず模様の異なる貨幣が存在することは明らかに手変わりが存在することが言えるだろう。通常貨にも同様のことが言える。「現行10円青銅貨の手変わり分類表」について、現在まで詳しく解説された書物がなかったために催事(第14回東京コインショー)で【手変わり】表示され高値でプレミアムがつけられ店頭に並んでいた状況を見ると胸が痛んだ。昭和56年の貨幣は2枚(前期と後期)で状態は未使用であったが、2枚で2000円の高値で店頭販売されていた。手変わり表示されると幾分高値になるという。しかし、2枚とも存在数は非常に多く、ごくありきたりにみられる10円青銅貨であり、廃刊となった「ボナンザ」誌にかつて杉浦和美氏がわが国で初めて発表されたものであった。この文献は先述の杉浦和美氏の「現行十円銅貨 昭和56年の手変わり」(『ボナンザ』18巻、111号、1982年)であり、文献に発表された影響で高値で取引されていたのである。私が知る限り、日本の十円青銅貨の手変わりの歴史がわかる初めての文献であり画期的であった。大阪のコイン業者さんからこの資料を送って頂いた。敬意を表したい。『ボナンザ』誌が廃刊になる数年前は、手変わり研究が多くの研究者によって『ボナンザ』誌上で次々と発表され長く続いた。やがて現在になって『収集』誌上オークションなどにも昭和56年前期・後期が【手変わり表示】され出品された。   
しかし、「現行10円青銅貨」は一般の業者の店頭販売では現状、手変わり区分をされて販売されてはおらず資金もいらず集めやすいジャンルともいえよう。最も昭和61年後期 Cf型 を除けば比較的手に入りやすい。昭和61年後期 Cf型はマスメディアの2019年6月4日放送「林修の今でしょ!」講座でも紹介された有名な手変わりである。一般の収集家にとっても、昭和61年前期・後期、昭和27年前期・後期は著名な手変わりになった。逆の言い方をすれば、この情報を入手したごくわずかの上級者の手変わりコレクターに、未見品や稀少品を先に高額なプレミアムのない通常価格で拾われてしまうことも考えられる。


このホームページの内容は、主に10円青銅貨の年号別収集を卒業された中級者以上の収集家向けともいえる。かなり10円青銅貨の手変わりに詳しくないと理解できない分野でもある。近代貨幣の手替わりにもある程度理解し、造幣局での貨幣の製造工程(種印・極印・刻印・圧印・鋳造の意味)にも詳しくないと理解できないと思う。一つの種印から複数の極印が生まれ、造幣局の担当者(工芸官)が機械で修正できないところを手彫りで直す。種印の疲労が原因で種印を「たがね」と呼ぶ道具で手彫りで修正する際に高度な技術を蓄えなかった当時の(経験の浅い)工芸官が異なった図案に彫ったため何種類もの種印が生じたとも考えられる。それゆえ手変わりは生まれるのだと推測します。修正した種印が変化しており、異なる種類の極印で打たれたものを「手変わり」という。つまり、同額面、同年号ながら、種類の異なる極印で打たれたもの。またその分類。明治期のコインには昔からタイプ別の分類があるが、とにかくバラエテイーに豊富である。種類の多さがコレクター心をくすぐるわけである。同一規格での大量生産技術が進んだ現行コインでも様々なタイプが存在することは興味深い。現在の造幣局の硬貨製造技術は世界最高水準である。

なかでもコレクターが注目するのが「手変わり」である。「手変わり」とは、同じ貨幣であっても、デザインや書体の細部に微妙な違いがあることを意味する。いろいろな手変わりが発見され、コレクター独自による研究が進んでいる。「貨幣の評価ポイント」では、「状態の良さ」・「稀少性」・「人気のデザイン」が重視される。僅かな違いに見えるがここに評価額の大きな差が生まれ、その価格差は年々開いていく。例えば、昭和61年後期 Cf型 が有名である。年号別収集が完成したならそれで終わりというわけではなく、奥の深い楽しみ方もある。稀少手変わりにプレミアムを付けて店頭販売されることは収集界独自のものである。個人的には極端に高値で販売されることを望んでいない。収集家一人一人が満足する方法で集めることができることが一番いい。

元近代貨幣手変わり研究会会長の枝重夫氏によると、「現行10円昭和27年の前期と後期について」(『ボナンザ』19巻、第5号、1983年)、などに発表されていた分類は平成24年銀座コインオークションやミントプラスオークションなどでも【手変わり】表示されるようになり現在ではすっかり一般にも定着した。当時の手変わり研究者によって分類方法もさまざまであり近年発行された10円青銅貨にも識別記号をつける必要性が高まったため最新情報を広く開示することにした。

専門的な書籍といえば平成23年10月に内外貨幣研究会から出版された書物だけであり、故鈴木和三郎先生が発行された『日本の現行貨幣ー収集の手引きー』2011年10月だけである。およそ10年は10円青銅貨の手変わりの分類が放置されていたため今の分類が知りたくてこの分類表をまとめた。喀龍氏の分類された表が『日本貨幣カタログ1994特集』に表示されただけで後に発行された『日本貨幣カタログ』には掲載されていないことに加えて、評価がなされていないことが収集家を混乱させている。今までにも様々な情報が混乱しているため、現在までの一般収集家にとっては混乱していると思う。なお、各研究家の考え方の違いは様々でありはっきりとは分からないところがある。なお、「日本貨幣カタログ」2023年版に従来までの通説が覆され新説として記載されるようであれば「認知度」から見ても正常の評価がされるようになるであろう。


実際の貨幣を製作する際にデフォルメされ省略された平等院鳳凰堂に関して実際にはないが貨幣にはある部分、逆に実際にはあるが貨幣にはない部分がある。これは仕方がない。喀龍氏は「10円青銅貨の平等院鳳凰堂は実物に忠実に描かれているように見えて、実は細部ではかなりデザイン化かつ省略化されており、実際の平等院鳳凰堂とは微妙に形状が違います」と「収集」誌では述べられています。アルファベットで表記した識別番号と各部位について可能な限り正確かつきちんと統一した情報が手変わり収集家たちに必要だと肌で感じていた。

私の「手変わり」収集が盛んになるにつれ、従来の喀龍氏の分類表に従うことにした。故鈴木和三郎先生が発表された10円青銅貨の分類表は細分類されすぎて割愛させていただいたところが多い。例えば、催事やコイン商をめぐり長年時間をかけて良い状態のハイグレードのコインを集め完全収集ができるようにあえて主な手変わりだけ手変わり分類表に選んだ。鳳凰形状の違いなどの細分類は昭和27年銘の前期と後期に関する資料(日本銀行調査局『図録日本の貨幣 管理通貨制度下の通貨』第9巻、東洋経済新報社、1975年。)の残るものを除き省略しました。「国」の文字形状なども手変わりからは削除した。正確に言えば、手変わりですが細分類まで含めるとキリも限りもない。

あくまでも私個人の分類方法であり、分類方法も令和になり追加・改訂が必要だと常日頃から感じていた。10円青銅貨の手変わりには様々な手変わりがあるため収集家などにも細部の特徴記号・特徴分類を明記して統一して欲しいという要望も受けた次第である。現時点で必要と思える分類表を喀龍氏の特徴分類を基本とし、故鈴木和三郎先生の『日本の現行貨幣ー収集の手引きー』やWEBサイトに掲載されている分類方法(細分類)に私が修正して最近の発行された貨幣に追加して識別記号や各部位の呼び名も新たに付け加え手変わり分類表も改めた。組み合わせ手変わりを追加した。

提案であり希望でもあるが、日本銀行や造幣局で貨幣・紙幣に関する書物を出版してくれれば収集家にとっては正確な情報を得ることができて分かりやすいが出版社の印税や書店の収入も期待できるとは思えないから、せめてホームページだけでも情報を発信してもらえないだろうか。特に、貨幣業者は「日本貨幣カタログ」に分類された手変わり品についてのみ信頼してプレミアムを付け販売するところが多い傾向がみられるようである。造幣局や日本銀行の公式見解があれば、収集家にとってもどれを手変わりにしていいのかはっきりと区別ができるため理解ができてよいと思われる。

「収集家」にも十分納得してもらえる分類方法と識別番号と思えるが、貨幣の拡大倍率によってはさらに細分類が可能になるため収集家独自の手変わり方法があってもいいと考えている。喀龍氏の発表された「手変わり分類表」にある識別記号についても未見のものがあり存在が非常に疑わしいものも見られる。そのため昭和56年 Bd型 左裳階枕:上下無し は私は存在にかなり否定的で収集範囲から外してもいいと思う。報告者の間違いではないかとも思える。また、識別記号に関しても独自のものがあってもよいと考えている。

私がおよそ8年かけて流通貨幣を探してみたが、喀龍氏の分類表には「存在の報告はあるが現品未確認のもの」とされるもののうちで 昭和56年 Bd型 左裳階枕:無し と故鈴木和三郎先生の著書『日本の現行貨幣−収集の手引き』に掲載されている 昭和54年 Bb1型 左隅楼軒先:細い2本線 左裳階 枕:下無 を見つけることはできなかった。特徴分類や手変わり分類を記号化するようにした。言い換えるならば、識別番号を各10円青銅貨の手変わりにつけてみた。なお、識別番号および貨幣の呼び名については今回、改めたことがある。自分でもよく考えた結果である。

名称は立体的なものをデフォルメして平面に彫刻しているため、実際にはあるものがなかったり、逆にあったりする。省略されているため、貨幣上での呼び名にはこだわらなくでもいいのではないかと思う。なお、注意しなければならないのは10円青銅貨は低額貨幣のために、摩滅や摩耗が激しいため手変わり分類は未使用品で区別しなければならないことである。使用された頻度が非常に高い。そのため、傷や摩耗のほとんどない未使用状態のものは大変稀少である。私は10円青銅貨の「手変わり品」の未使用品をすべて収集したい。
10円青銅貨の通常貨での手変わり分類はほぼ収束しつつある。だが、ミントセットの中身はもちろんであるが特にプルーフセットの中身はサンプル数が少なく催事で確認できた回数が少ないことに加え、私の所有する少数の貨幣だけしか見ておらずまだまだ新情報が出てくる可能性があり、大きく期待している。あくまでも現時点で盛り込める情報を可能な限り掲載したつもりである。『収集』誌からある日突然、FAXが送られてきた。その用紙には喀龍氏の回答が掲載されており、「10円青銅貨の鳳凰堂のような繊細な図案は流通したものでは傷などによって図案が変形したり鮮明でなくなっていることが考えられるため未使用、完全未使用で判別するのが確実である。また、文字や図案の太さの違い、幅の違いなどは極印の使用途中に行われる研磨作業によって変わってくることなので、太さや文字の幅の違いに着目して別種と分類するのは適当でない。」とのことである。
そして10円青銅貨(通常貨・プルーフ貨)に関する分類研究が進むこと、コイン収集活動のさらなる促進と日本の収集文化の発展に寄与できることを念願している。これにより一般の入門者が細部に関する知識を得るために役立てばありがたいし、さらに研究が進みこの文章が不要になったり、欠点を見つけ出してもらうことを深く望んでいる。現在は収集家にとっては長いともいえる2年続けての東京国際コイン・コンヴェンションの中止により現地での拡大鏡を使った分類ができない状況であり非常に残念である。新型コロナウイルスの感染拡大予防のため、地元の貨幣研究会例会でさえ1年以上中止をしている状態である。自由に催事に行けるようなった際は拡大鏡を持ち未見品はもちろんのこと稀少度の高く、私の所有しているものより状態の良い貨幣があれば選んできたい。会場で未見品を探すのも非常に面白い。

※茨城貨幣研究会例会は2021年6月20日から再開しました。10円青銅貨の未使用は収集界に数多く残されているため未見品、存在の報告はあるが現品未確認のもの、超稀少品を見つけることは必ずできるはずである。また、プルーフセットに関しても見たサンプル数は非常に少ないため未見品は収集界に残されているものと思える。期待したい。また、貨幣業者様にも10円青銅貨の手変わりがあることを知っていただき、珍手変わりの発見と販売に協力してくださるとなお嬉しい。現状は詳しくない貨幣業者様が多いと思われる。なお、私はこの分野である手変わり分類が発展する努力をさらに続けたい。

2.内容
本ホームページでは昭和26年から令和4年までに発行された現行10円青銅貨の通常貨にはもちろんであるが、昭和62年から令和4年まで発行されている10円青銅貨のプルーフにも最新の特徴分類と特徴記号を追加してみた。近年、確認された手変わりの新手変わりや組み合わせ手変わりを加えた。10円青銅貨の手変わり分類は様々ありコストもあまりかからず非常に面白い分野である。例えば、稀少性、状態の良い貨幣、青銅貨の未使用といってもさまざまであり長くコレクションを続けるとよくわかってくるだろう。銅の原色の割合具合でPCGSやNGCなどのいわゆるスラブ入りコインでは区別していて評価・価格もかなり異なることが分かってくるだろう。
さらに従来、昭和61年 後期 Cf型 階段石垣耳石切れ目:無し は昭和62年プルーフ 階段石垣耳石切れ目:無し を製造する際の試鋳貨と考えられており、昭和62年プルーフには階段石垣耳石切れ目:無し しか存在しないと考えられてきたが、昭和62年プルーフ Ce型 階段石垣耳石切れ目:有り(大珍品と言えるのではないか)を最近某大手オークションから入手できた。偶然にも大発見ともいえるため日本貨幣商協同組合の『日本貨幣カタログ』に書かれている慣習的に用いている昭和61年 前期 Ce型・後期 Cf型 に関しても貨幣の図案と説明を修正していただき書き改めていただきたい。なお、当然のことながらプルーフに関しても10円青銅貨の手変わり分類表を追加することにした。当然ながら、昭和62年プルーフ Ce型 階段石垣耳石切れ目:有 についての鑑定はまだ複数の専門家・信頼できる専門機関・有名コイン商の鑑定士ほか多数の業者に依頼をしていませんのでその点はご承知ください。催事に参加してみて本物と鑑定された場合、第三者鑑定機関であるPCGS社にグレーディング依頼をしてもらおうと考えている。
繰り返すが、『日本貨幣カタログ』2022年版には昭和61年前期と後期のことに加えて、通常貨の後期は昭和62年プルーフ貨の手変わり 中期 Cf型・後期 Cg型と同じ図案であることしか記載されていなかった。実は、昭和62年プルーフ貨の手変わりにも前期 Ce型・中期 Cf型・後期 Cg型の3種類あるのである。そのほかの手変わりの分類表などの掲載には間に合わなかったため来年以降に期待します。私の考えではあるが、今昭和61年後期をお持ちのコレクターはカタログに記載されないうちに売却したほうがいいと思う。最新のカタログにも書かれていないため高く売れると思う。「人気度」、「認知度」、「稀少度」があり初めて高値が付く分野であるため仮にカタログに掲載されたとしても「稀少度」、「認知度」が残るため通常の稀少手変わりよりは高値になると思える。このことは当然ながら『日本貨幣カタログ』のあとがきに書かれている通り日本貨幣商協同組合には報告済みです。


喀龍氏の分類のうちで唯一の細部特徴ともいえる昭和56年 枕:有無 に関してだけ拡大写真にて紹介し、各極印種の詳しい特徴を解説した。極印鑑定上重要な変化を含むものを重視し、多少細かくなっても記載するようにした。実際に拡大鏡で区別するときは大まかな箇所は15倍、細部特徴に該当する枕:有無に関しては22倍の拡大鏡がいいであろう。私は最近2021年4月19日に開催された第24回オークションワールドで昭和40年 Ab型 前期 右隅楼軒先:2本線10円青銅貨(少ない手変わり品)NGC-MS65RDを落札した際に、中国製の拡大鏡をプレゼントしてもらったが非常に見やすく気にいっている。
造幣局で規定指定している10円青銅貨の表面にあたる「宇治平等院鳳凰堂面」と裏面にあたる「年号面」を青銅貨の輝き具合についてもよくわかるように写真を拡大して多く使った。良い貨幣とはどういうものをいうのかよく理解できると思う。上級収集家の方は、ぜひ完集に挑戦していただきたい。通常貨の喀龍氏の分類表にあり、「存在の報告はあるが現品未確認のもの」として挙げられている昭和56年 Bd型 左裳階枕:上下無し、昭和59年 Cb型 左破風:階段型、故鈴木和三郎先生が発行された『日本の現行貨幣−収集の手引きー』に記載されている昭和54年 Bb1型 左隅楼軒先:細い2本線 左裳階 枕:下無し 未使用は完集にはかなりの年月が必要であろう。10円青銅貨は様々な貨幣を低コストで収集できる資金の掛からない分野であり、収集難易度と収集パターンを楽しめる分野と言えよう。

3.まとめ
基本的には喀龍氏の作られた手変わり分類表に従った。これらの名称は実際にある呼び名ではなく、基本的には故鈴木和三郎先生の発表された貨幣上の名称に従っている。一部、私が改称した部分があるがその点はご容赦いただきたい。どこまで私が付けた名称が収集家に浸透するか未知である。正式な名称について宇治平等院鳳凰堂に関する多くの書物はもちろん、宇治平等院ミュージアム鳳翔館学芸員の田中正流氏から名称を教えていただいた。名称に関しては貨幣にするために彫刻するにあたり、実際の平等院鳳凰堂にはあるものがあったり、なかったりするため分かりにくい。そのため名称にはこだわらなくてもいいのではないかという結論に至りました。現実の平等院鳳凰堂をリアルに描写したというよりは、造幣局内の極印原型デザイナーの方により現実の平等院鳳凰堂の形状を参考としつつも、簡略化かつデザイン化して表現されているといえるであろう。

秋山光行ほか『平等院大観 建築1』岩波書店、1987年によると、「鳳凰は想像上の鳥で、しかも最高位の鳥である。鳳凰像のある宇治の平等院は、永承7年(1052)に関白・藤原頼道により寺が開かれ、翌年に阿弥陀如来を納める阿弥陀堂(別名「鳳凰堂」)として建立されたものである。現在は国宝として、また世界遺産にも指定されている貴重な歴史的建造物で、鳳凰像の現物(屋根の上についていた「初代 鳳凰」)は、屋外で風雨に曝されると昭和修理後の昭和40年代に公害物質で金属が腐食する恐れがあるため、国宝の文化財として青銅色のままで国宝に指定されている創建時の鳳凰が鳳翔館に収蔵展示されており、建物の屋根にある一対の鳳凰像は2014年に修復されたレプリカで、銅製の金メッキされたもの(二代目 鳳凰)であるため、黄金色に輝いている。」と述べられている。

特徴記号が異なることは、平等院鳳凰堂側の極印が異なることを意味する。繰り返すが、「手変わり」の細分類は拡大倍率によって差異がみられることもあるので省略をするかを決めておき、事前に特徴分類や基本的な語句は頭に入れておいてもらえるとより理解度が高まると考える。
基本的な分類に関する考え方については喀龍さんが執筆された『収集』2006年9月号に可能な限り準拠した。なお、特徴分類の名称に関しては故鈴木和三郎先生が執筆された『日本の現行貨幣−収集の手引きー』に可能な限り準拠した。
喀龍氏と故鈴木和三郎先生が発表された分類方法は正式な書物に記載されているため省略はしていない。仮に誤植があったとしても記載をした。ただし、明らかな間違いやその後に発行された貨幣に関しては付け加えるなどしたところもある。特に、昭和56年 Bd型や昭和54年 Ba1型は、私が実物自体を未見のため今後の調査研究にしておく。手変わり分類表にも、未見品に対する存在可能性を示す情報や通常品にも造幣局や日本銀行調査局や多くの書籍で記載されていることを可能な限り記載するようにした。

慣習的な前期・後期という表現に関しても記号をつけることにした。また、実際の平等院鳳凰堂の正式名称と貨幣で使われる名称を比べて、より正確な名称にしたが収集家にどれだけ認めてもらえるのか楽しみである。収集難易度に関しても経験から可能な限り多くの情報を記載するように心がけた。最初に研究・発表された喀龍氏、著書やホームページで細分類など文字形状の違いなどを研究された故鈴木和三郎先生の両者の研究成果がなければこの文章は書けなかった。CCFで稲100円銀貨の手変わりのように手変わり表示されて書信館出版株式会社のブースで販売されるように成長するとなお嬉しい。公式な資料が見つからないために、昭和61年 後期 Cf型は昭和62年プルーフ貨をわが国で初めて製造する上での試鋳貨的な意味合いが強いという解釈が収集界では定着してきた。しかし、従来の貨幣界の定説がこの新事実の発見により、覆されたことが言える。従来の定説に対して改善を加えることは趣味の世界でも同じことである。たとえ『日本貨幣カタログ』に新たに掲載されなくてもコイン業者さんからは購入を控えたほうがいいと思う。 昭和61年 後期 Cf型は非常に高額なためである。

わが国で最初に10円青銅貨にも手変わりがあることを紹介してくださった昭和56年前期・後期を「ボナンザ」誌に投稿された杉浦和美氏、同じく昭和27年前期・後期を紹介してくださった枝重夫氏、『日本貨幣カタログ』に昭和61年前期・後期と昭和62年プルーフ貨との関係を掲載され10円青銅貨の手変わり研究の世界に絶大な貢献を果たされ「現行10円青銅貨の手変わり分類表」を初めて発表された神吉廣純先生、『日本の現行貨幣−収集の手引き−』を執筆された故鈴木和三郎先生、四人の諸先生方には感謝をする次第である。また、極印の製造過程などについて詳しく解説され数多くの出版物を刊行された造幣局、書信館出版株式会社、日本貨幣商協同組合、貨幣の収集 研究の専門誌である月刊誌「収集」の資料(コピー)や昭和61年 後期 Cf型の並品を送付してくださり、現行10円青銅貨の手変わりについて多くの知識をくださった大先輩のU氏、 大阪の貨幣商、手変わりに関する正確な情報をいち早くくださった茨城貨幣研究会の各メンバーにも感謝をしなくてはならない。なお、『日本貨幣カタログ』、『収集』誌、日本貨幣協会の会誌『貨幣』などへの文献に記載され後世の資料として残ることを強く希望する。資料の裏付けによる検証がなければ日本貨幣協会でも正式な見解ができないためである。末筆ながらこのホームページの公開についていろいろご尽力していただいた方にも大変お世話様になり、ありがたく御礼申し上げる。特に、茨城貨幣研究会会長の滝田正雄先生、私の昭和62年プルーフ を鑑定していただいたレトロコインの太田大祐先生などにも記して感謝を言いたい。

<参考文献>

『日本貨幣カタログ』1994、日本貨幣商協同組合。
『日本貨幣カタログ』2022、日本貨幣商協同組合。

『収集』誌2006年、9月号。
『収集』誌2012年、7月号。
『収集』誌2022年、1月号。

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